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zoom RSS 旧大山町河戸

<<   作成日時 : 2010/11/27 12:08   >>

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 「提供:国土画像情報 国土交通省昭和50年航空地図ccb-75-21_c2_53」から河戸周辺地図を貼り付けております。
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 「提供:国土画像情報 国土交通省昭和50年航空地図ccb-75-21_c3_57」の地図よりこちらが水須になるのかな?
 水須には行った事がありませんが有峰往来途中にあった水須は戦前より既に荒廃しており水須の校下も小原(明治34・1901年4月〜)から牧(大正6・1917年頃)に切り替えられたので水須村民は次第に河戸に分家を建築するようになった。昭和17、8年には瀬川家、佐野家、西野家の三戸が転住し昭和22年上野家が転出に及んで水須は廃村となりました。
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 写真は大山祗社。
 河戸へ初めて行ったのは昭和56年夏その年湛水開始した小口川ダムを見に行く途中に寄りました。以後土方のバイト、マイタケ採り(有料道路になる前)に行く時にこの集落の横を通って行きました。
 世帯数は昭和30年9月15戸、31年17戸、39年19戸(この年1月28日農村公衆電話開設)、47年10戸、48年10戸(広報縮刷版21、28、556、594pより)、50年9戸37人(国勢調査より)。
 元々河戸は元来明治中末期にかけて、小口山沿いの河戸の石灰原石を利用して水須村民が十七、八窯もあって石灰を製造し、その仮小屋が現在の地に密集していたのである。
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 昨年訪れた時は廃屋3戸残っておりましたが、祐延へ入る新道の有料道路の道が抜けてしまっており地元の建設業者が手直ししており今年訪問した時も河戸の本通りが小口川有料道路入口進入用の道となっておりました。
 個人的には水須より河戸の地名の方が馴染み深いが…。最寄りのバス停「中地山発電所前」からおよそ1.7q、「才覚地」からおよそ1.8qとちょっと公共交通機関より離れていたので自家用車を持っていないと地元の人は大変だったでしょうね。自分の知り合いも昭和55年?に上滝地区に移住して来た方がおられますね。
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 この2軒見て解る通り入母屋(いりもや)、棟瓦に家紋(丸に片喰・方喰紋)を施したりと威風堂々とした重厚な家屋が目立ちます。
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 ところで河戸には板倉が無かった様な気がしたのだが…元々無いのかな?(下写真は旧大山町小原の板倉)
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 ところで旧水須と言えば有峰村〜水須村〜上滝村に向かう道の「うれ往来」(大正初年くらいまで利用)が通っていましたがこの道は藩政当初から飛騨への間道であった為、旧水須村に口番所(くちばんしょ)を設けて厳重に取り締まっていた。口番所は藩の関所で口留所(くちどめしょ)とも言われた。通行できるのは秋の土用迄でありその後は閉鎖されました(ちなみに平成22年秋の土用明けは11月6日であり有峰有料道路閉鎖もこの時期なので昔からの習わしで行っているのですかね?)。

 水須口番所は新川郡奉行の支配下にあった(文化11・1814年11月、湯浅祗庸著・ゆあさやすつね「北藩秘藩」より)。4人の番人がいて昼間は2人夜は3人で警護していたそうです。 安永5・1777年2月の口留番人は助五郎、忠三郎、久蔵、善蔵、清蔵の5人であった。
 後年明治に近くになったころには番人も7人に増えて給金は7人で年5石9斗分(約885s?)になっていました。
 水須口番所役人としていたのが水須在住の上野家であり最後の役人は上野儀兵衛門になるのかな?(以上「大山町史」「村の記憶」「有峰と常願寺川」より抜粋)

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